「哲学」によって学校を再生しようとする試み 映画「ぼくたちの哲学教室」を観て考えた【西岡正樹】
■問題行動を起こした子どもが必ず行く場所
ホーリークロス小学校には、問題行動を起こした子どもが必ず行く場所がある。それが「思索の壁」だ。問題行動を起こした子どもは「思索の壁」と言われるホワイトボードに向かい、自分の行いを振り返り、「問い」「考え」「言語化」しフィードバックするのだ。ホワイトボードいっぱいに並んだ言葉は、子どもたちの思索であり、自分との対話である。この思索の時間は哲学の時間ではないが、子どもたちはこの時間においても、自分が「いかに生きるべきか」を学んでいるように思える。また、ケビン校長も「思索の壁」に書かれた子どもたちの言葉を読みながら、きっと自らにも問いかけているに違いない。
教師が子どもたちに哲学的思考を求め、対話を求めるということは、教師自らも哲学的に思考し対話を大切にしなければならない。ホーリークロスボーイズ小学校のケビン校長や教師たちは、それを自らにも課している。また、この実践は、先述したようにケビン校長の悔恨によるところが大きい。ケビン校長にとって「哲学的思考」や「対話」が当たり前の事としてあるのは、彼の「生きざま」「信念」「理念」「希望」が、彼の体の中にしっかりと納まっているからなのだ。
私の実践が私の「生きざま」「信念」「理念」「希望」に裏付けされているかは、何とも言い難いが、この映画は私に、「あらゆる教育実践は教師の『生きざま』『信念』『理念』『希望』が根本になければならないのだ」ということを、あらためて思い起こさせてくれた。忘れてはいけないのだ、「人は人から学ぶ」ということを。
(教員不足のこの時期、このようなことを書くと「教師、めんどうくさい」なんて言われ、希望者がさらに少なくなる心配も「無きにしも非ず」だが、元来教師という仕事はめんどうくさいものなのです)
文:西岡正樹